『記憶のかけらの数々が生きる力を与えてくれる、そんな気にさせられる佳品』
20代後半から30代前半の女性向け雑誌「PHP Carat(カラット)」に、佐藤正午が連載していた23のショートストーリーを集めて編んだ一冊です。どの物語にも、スイートピーやバラ、スズランやアジサイといった花が登場します。
しかしこの短編集に真に共通したアイテムはこうした花々ではありません。そうした花が登場人物の心にさざ波を立てるように呼び起こす「記憶の欠片(かけら)」なのです。
これら短編が連載されていた雑誌がターゲットとした20代後半から30代前半の人々は、きのうや今日といった数日単位の思い出ではなく、数年単位のまとまった記憶の数々が人生の中に蓄積されていると感じることができる最初の年代にあるのではないでしょうか。
大切な家族との、当時はどうということのなかった日々の会話。
どうして気持ちが離れてしまったのか思い出せないあの人との苦い別離。
子供時代に出会った不思議な人との縁(えにし)。
そうしたひとつひとつを大人になって思い返すと、当時は気づかなかった、もしくは理解が至らなかった「記憶の欠片」の数々が、以前よりはずっと明確な輪郭と意味をもった思い出として自分の中に位置づけられるようになるものです。そんな作業はある程度の年齢に至って初めて出来ることであるような気がします。
そしてそうした作業をしながら、私たちは自分の人生をもう一度生き直すことになります。ある時は口の中が乾くような不興を味わう追憶であるかもしれません。またある時は、心ときめくような、生きる喜びを呼び起こす体験であるかもしれません。
人間の持つ記憶の力について、佐藤正午はその美しい文体で綴り、私の心をやさしく波立たせてくれるのです。
28の短編の主人公たちの追想のひとつひとつに自らの記憶をたびたび重ね合わせながら、私はこの一冊を堪能しました。